テレビのニュースから「桜が満開」だと耳にした。 桜の季節になるたび、先生のことを思い出す。もうあれから三年も経ってしまった。忘れたいのに、忘れようとしているのに、毎年この季節になると記憶がよみがえる。 高校を卒業して、たくさんの男の人と出会い、付き合ったりもした。けれど、本気にはなれなかった。 今でも私は先生が好きだよ。だから忘れることができない。 私は久しぶりに母校の桜を見に行くことを決心した。 大切なカメラを持って――。 思いを馳せて、玄関を飛び出した。 私の通っていた高校は、桜の木で有名だった。校門から校舎に向かう道の両脇に、桜の木が何十本か立っていて、桜が満開になると、桜のトンネルができるのだ。 毎年、学校関係者以外の人もそのトンネルを見に来たり、写真撮影に来る人もいた。 * 高校3年生に上がる直前の春休み。三日後の入学式に備えて、実行委員会になってしまった私は、その準備のため学校に行った。 桜のトンネルを通ろうとすると、一人の男の人が桜の写真を撮っていた。初めは、カメラ好きの男の人が撮影しに来ているだけだと思っていた。 その人とすれ違う時。その人は私に「桜のトンネル、きれいだね」って声をかけられた。「そうですね」と答えるとその人は、私の髪に付いていた1枚の花びらを取ってくれた。 その日の出来事は、今でも鮮明に覚えている。 * 始業式。 新任の先生の紹介で舞台に上がった一人の先生を見て驚いた。あの日、桜のトンネルで会った人だったのだ。 名前は青山先生。教科は英語。 そして受け持ちの学年は一年生だと聞いた瞬間、私は肩を落とした。その時すでに、青山先生のことが好きになっていた。 数日後、その青山先生が写真部の顧問になったということを知り、帰宅部だった私はさっそく入部届けを出した。 「三年生になって今頃、部活動に参加するなんて」と担任の先生に言われたが、私はどうしても青山先生に近づきたかった。 部員に女の子が少なかったせいか、私は先生と他の誰よりも仲良くなった。桜のトンネルの中で私と会ったことも覚えていてくれた。そんな先生をどんどん好きになっていった。 そんな中、ある日突然、私と青山先生の噂が学校に流れた。たしか季節は夏服から冬服に変わってすぐだった頃だと思う。 たぶん噂を流した犯人は先生のファンの子で、先生と仲良くしている私が気に入らなかったみたい……。二人の間には何もなかったのに。 先生は校長や教頭に呼び出されてしまった。私も担任に呼び出された。 なんとか、噂はデマだったことが解ってもらえたけど、これ以上、先生に迷惑をかけられないと思って写真部を退部した。ちょうど引退する同じ学年の子もいたし、受験勉強をしないといけないからという理由をつけた。 それから以前友達に「××くんって、春華のこと好きみたいだよ」と言われたのを思い出し、私は「実は私の好きな人は××くんなんだよ」と嘘の告白をし、付き合うことになった。 彼と付き合ったことで、私と先生の噂は次第に消えた。彼は私のことをいっぱい想ってくれた。 だから私は彼のことをいつの間にか好きになっていた。でも長くは続かなかった……。 * 志望する短大にも無事合格し、卒業式。最後の思い出にと写真部の部室で、偶然にも青山先生と会ってしまった。 「橘さんにはいろいろ嫌な思いをさせてしまって、本当にごめんね」 先生と話したのは、あの噂が広まる直前以来だった。 私はずっと先生と話したかったけど、避けるようにしていた。だからその間はとても辛かった。 私は先生に最後に一つだけお願いをすることにした。これで先生のことは諦めようと。 「卒業の記念に先生が使っていたものをください。ボールペンとかでいいんです……」 先生の胸ポケットにささってたペンを指した。 すると先生は「ちょっとここで待ってて」と言い、一旦その場から姿を消した。 そして戻ってきた先生は、私に1台のカメラを差し出す。 「私に? こんな高価な物受け取れません。あのことなら私はもう気にしてないし……」 「そういうつもりじゃないよ。ただもうこのカメラ使ってないし、小型だから橘さんの方が使ってくれた方が、このカメラも喜ぶと思うよ」 「……本当にいいんですか」 「うん。その代わり他の子には内緒ね」 「はい。ありがとうございます」 こうして私と先生との間に一つだけ秘密ができた。もちろんそれ以上は何もなかった。 連絡先の交換もしなかった。先生が聞いてくれれば教えただろうけど、聞いてもらえなかった。 先生に「さようなら」と言い、私はもう二度と先生に会えないんだと思いながら学校を卒業した。 * 自宅から電車を乗り継いで三十分。目的地の母校へ着いた。 桜は満開だった。久しぶりに見た桜のトンネル。思い切って来てよかった。 私はバッグからカメラを取り出し、準備をした。ファインダーを覗くと、向こうに誰かが……。 ――誰……? 構えていたカメラを下ろすと、先生だった。 「あれ? 橘さん?」 「先生……」 「元気そうだね」 「先生も」 先生は全然変わってなかった。雰囲気は少しだけ落ち着いた感じになったかな……。 ダークグレーのスーツに、水色のネクタイ。先生はブルー系のネクタイが多かったよね。今でもそうなのかな。 「そのカメラ、まだ使ってたんだ」 私が手にしていたカメラを指した。 「もちろんです。宝物ですから」 そう言うと先生は「よかった」と微笑んだ。 「そう言えば短大に進学したんだっけ。あれ? もう卒業?」 「はい。今年卒業でした。四月から社会人ですよ」 「早いな」 「先生はいくつになったんですか?」 「僕はもう二十五だよ」 「二十五歳……? なんか不思議ですね。高校生だった頃は先生とすごく年が離れてる気がしたけど、今はそんな風に感じないな」 「それはきっと二十歳になったからなんじゃない?」 「そっか……」 自分が先生にちょっと追いついたようで嬉しかった。 それから私たちは、一緒に桜を撮影した。シャッターを切りながら話をした。 「先生、結婚ってしましたか?」 「まだしてないよ」 「予定は?」 「予定もないし、相手もいないよ」 ちょっと悲しそうに答える先生に、失礼ながらも喜んでしまった。 「じゃあ……、デートに誘ってもいい?」 半分本気で半分冗談。 断られても平気と自分に言い聞かせ、思い切った。 「んー……、いいよ」 先生は少しはにかんでOKしてくれた。まさかこんな風に展開するなんて。 「では、さっそく……」 少し咳をし、呼吸を整える。 「先生、今日のこの後の予定は?」 「何もないけど。少し待っててくれるんだったら、どこか行く?」 その返事に胸が鳴った。 私たちは駅で待ち合わせをして一緒に電車に乗り、先生が観たいと言った映画を観た。 自分が観たいものではなく、先生の好きなものを知りたかったから。でも私にはちょっと難しかった。 先生はそんな私に気づいて「今度は橘さんの観たい映画にしようね」って言ってくれた。先生から“今度”と言われて嬉しかった。 帰り際になって、またドキドキと胸が苦しい。 どうしよう、このままサヨナラしてしまったら絶対後悔する。言おうか言わないほうがいいのか、先生の“今度”を待ったほうがいいのか迷い、もうこうなったらと勢い任せに聞いてしまった。 「先生、次の約束してもいい?」 「……いいよ。次はどこに行こうか」 「本当に!?」 多分、今日は私の人生で一番幸せな日なんじゃないかって思った。 「海は? ちょっと寒いけど、カメラ持って」 「いいね。海なんて久しぶりだな。そうだ。うちの犬連れて行ってもいい? 犬嫌いじゃない?」 「犬好きですよ。先生ん家、犬飼ってるの? どんな犬?」 「ビーグル犬だよ」 「ビーグル!? 見たいです」 そして私は土曜日、約束の駅まで行き、そこに先生が車で迎えに来てくれた。 先生は電車通勤だったから、初めて車を見る。ハンドルを握る先生は、いつもよりも増してカッコ良かった。後ろの座席には、先生の愛犬が座っていた。 「先生、この子の名前は?」 「デューク」 「男の子?」 「うん」 「デューク〜。いっぱい遊ぼうね」 デュークはしっぽをいっぱい振って、私の手を舐めた。実家で子供の頃飼っていた、柴犬の「コロ」を思い出した。かわいいな。 海に到着し、デュークとフリスビーで遊んだり、写真を撮ったりした。 「先生、お弁当作って来たの。食べてくれますか?」 「マジで? すごいじゃん」 先生は「美味しい」っていっぱい食べてくれた。 それから食後の運動と言って、先生はまたデュークと走り回り、その姿をカメラに撮った。 撮っていたら、なぜか涙が出てきた。何でかな……。拭いても拭いても、止まらない。 「どうした?」 私の様子に気づいた先生が心配してくれた。 「何でもないんです……。ごめんなさい……」 デュークも心配そうに「ク〜ン」と鳴いて、私の頬の涙を舐めた。 「あ、デュークめ!」 先生はデュークの顔を私から離した。なんだかその姿がヤキモチを妬いてくれてるようで、可笑しいんだけど泣けてきた。私は先生のことが好きで好きで仕方ないんだ。 やっと涙が止まって、私は何もなかったように話をした。 「先生に再会する少し前、卒業旅行に行ったんです」 「どこに行ったの?」 「スペインです」 「最近の卒業旅行は豪勢だねー」 「貧乏旅行ですけどね。先生はワイン好きですか?」 「うん。好きだよ」 「じゃあ、お土産で買ってきたワインを一緒に……飲みません……か?」 「飲もうって、どこで……?」 ちょっと戸惑ったように聞こえた。 「先生って実家なんですよね?」 「うん」 「だったら私のウチ……?」 「あれ? 実家住まいじゃないの?」 「実家はお姉ちゃん夫婦が入って来たから、出たんです」 「でもそんな簡単に部屋に男を入れてもいいか?」 「大丈夫。何もしないからっ」 「それは男が言うセリフ」 先生は笑った。 「スペインで、料理もちょっと勉強したんです。私これでも調理師と栄養士の資格取ったほど料理できるんだよ。だから楽しみにしてください」 「わかったよ。でもいいのかなぁ」 先生は渋ってたけど、最後にはOKしてくれた。 当日、先生が来る約束の六時に合わせて、いっぱいご馳走を作った。 テーブルの上に置いてあった携帯から、先生専用に設定してあった着信音が初めてなった。 「もしもし」 『結構近くまで来てると思うんだけど、どこかな……』 「ちょっと待っててね」 私はアパートの前の通りまで出ると、先生がいる。 「先生!」 私は嬉しくて先生のそばまで駆け寄った。 「ご飯もうできてるよ」 「そのために腹減らしてきたから。楽しみだよ」 そんなこと言ってくれる先生にますます期待しそうになる。 私たちの関係のこと――。 この先、進めるかな……。 進めたいな……。 玄関を開け、先生を招き入れた。 「おじゃまします……って本当に入るよ」 「どうぞー」 ここまで来て先生はそんなこと言うんだから……。 「おお!本当すごいね。弁当にも感動したけど」 「へへ」 初めて、短大で勉強した甲斐があったと思った。好きな人に喜んでもらうのがこんなにも嬉しいなんて……。 冷蔵庫に冷やしておいたワインを出して、先生がコルクを抜いてくれた。 「乾杯!」 グラスの音が部屋を響かせた。 「んー。美味しい!」 私がワインを飲んでいる姿を見て 「そっかー。酒、飲めるんだよな。すごく不思議な感じがする。たぶん娘と初めて酒を一緒に飲む父親ってこんな気持ちなのかも」 先生は目を細め、そう言った。 「えー。私、娘?」 「うん。娘」 娘かー……。嬉しくない……。 スペインで撮った写真を見ながらご飯を食べ、先生は「美味い」と何度も言ってくれた。 私がお皿を洗っていると、 「ケーキ買って来ちゃったけど、もう食べられないな。それにもうこんな時間だし……」 先生がもうすぐ帰ろうとしていることがわかった。 「明日一緒に食べようよ」 私は手を拭きながら、リビングにいる先生に向かって言った。 「そうだね。……って……明日!?」 驚いてる先生の肩に腕を絡ませた。 「先生……。先生は私のこと元生徒としか見れない? それとも子供みたい? 娘みたい?」 「そんなことないよ。さっき言ったこと気にしてるの?」 「だったら先生の彼女にして。私のこと春華って呼んで」 そう言うと、先生は私の体を離した。 その瞬間、言わなければよかったと後悔した。 先生はそんな私の顔をのぞき、優しい手で頬を覆った。 「僕はね、ずっと“いい先生”でいようと思ってたんだよ。本当は卒業式の日、言いたかったんだ。でも言えなかった。春華が好きだってことを」 「先生……」 「あの日、桜のトンネルで再会できて良かった」 「うん」 ゆっくり唇が重なると、そのまま床に仰向けになった。目の前には先生がいる。 「せんせ……、何もしないんじゃなかったっけ?」 「それはキミが言ったんだよ。僕は言ってないよ。……嫌?」 「ううん。全然嫌じゃない。嬉しい。でもお皿洗ってる途中だった」 「お皿も明日一緒に洗おう」 「うん……」 私たちは“教師と元生徒”から恋人という関係になり、次の日先生が買って来てくれたケーキを一緒に食べた。お皿も一緒に洗ってくれた。 それから、桜の写真や海で撮った写真を二人で壁に飾った。 私は先生に隠れて桜の写真の裏にそっと願いごとを書いたんだ。 来年も再来年も……ずっと先も、先生と一緒に桜のトンネルが見れますように……って。 happy end... 2006-03-17.04-02 2012-07-05 修正 |