私はとある田舎の高校を卒業し、地元から遠く離れた東京で就職した。 そして一週間前、結婚の約束をしていた同じ会社の彼に突然振られ、実家に戻ることになってしまった。 二十七歳になる年の春。 彼は、私と婚約していながら浮気をしてて、その女が妊娠したらしく彼はその女を選んだ。 お互いの両親の顔合わせもしていた。婚約指輪ももらった。結婚式場も予約してあった。けれど彼は、私を選ばなかった。 謝り続けられても、土下座されても、一生許せない。 けれどそんな気持ちの中、一部では相手の女が妊娠してくれてよかったと思ってる。 だってこんなにもだらしない男、こっちがいらない。 結婚する前でよかったのがせめての救いだったと、自分に言い聞かせた。 それでも、自分に起こった出来事が信じられなくて、一気に5キロも痩せてしまった私を見た両親は異様に気を遣ってくれた。 「美羽(みう)、おかえり。今日はお寿司取ったからね」 お寿司? なんでそんなの頼むの? いつもと同じ、普通のご飯でいいのに。めでたくもないじゃん。 私がこの家を出て、上京した途端、高校の時まで使っていた部屋は物置と化した。 けれど、出戻り同然の娘を両親は何も言わず、部屋を片付け空けてくれた。 そんな両親には感謝してる。 してるはけど、今の私には良い娘を演じられるほど心に余裕がなかった。素直になれなかった。 ――ピーンポーン 「来た来た」 パタパタとスリッパの音をさせて玄関に向かった母。 「こんにちはー」 「あら、翼くんが持って来てくれたの?」 玄関先から“翼”という名前を聞き、ドキッとする。 その名前の主は、私の初恋の男の子だった。 「美羽が帰って来たのよ」 母が余計なことを言った。 「美羽ー。降りてきなさーい。翼くんよ」 翼に会いたくなかった。 とりあえずこっちに帰ってきて、東京ではない違う街で、すぐにでも就職先を見つけて、新しくアパートも探して実家(ココ)からすぐ出るはずだったのに…。 仕方なく玄関に出て 「どうも…」 私がよそよそしく挨拶すると 「久しぶりだな」 翼は少し低くなった声で私に言った。 「これ俺が握ったから」 翼は八年間修行をし、つい最近、実家のお寿司屋に帰って来たと母親から聞いた。 「ふーん。それは私の破談パーティーにわざわざありがとう」 「ハダン……?」 私は翼の顔をまともに見ることができないまま、二階の部屋に閉じこもった。 本当は、修行よく頑張ったね、とか、おめでとうって言ってあげたかったのに。それがどうしても口に出すことができない。 翼と私は実家が隣同士の幼馴染だった。 私の初恋は翼だ。けれど翼の初恋は私ではない。たぶん同じ幼稚園のゆみちゃんという女の子。 子どもだった私は当たり前のように、いつまでも翼と一緒にいられるものだと思っていた。けれど大人に近づく毎に、それは無理だということを知った。 * 今思えばあの婚約者だった彼はどこか翼に似ていた。いつも心のどこかで翼と似ている人を探していたのかもしれない。 けれど、翼は私を好きにならない。昔も、…きっとこれから先も。 私はきっと誰からも一番に愛してもらえないんだろうなぁ…。 なぁんてね。悲劇のヒロインになってしまった。飲もう、飲もう。 両親が私のために取ってくれたお寿司。初恋の人が丹精込めて握ってくれたお寿司。私はそれを口にはしなかった。今の私に食べる資格はない。 小腹がすいた私は、駅前の小さな居酒屋のカウンター席で飲んでいた。一人でこんな所に入ったのなんて、もちろん初めてだった。 「オネーチャン、一人か? これ飲む?」 隣に座ったおじさんが、ボトルキープの焼酎を差し出した。 今日は日本酒オンリーだったんだけどなぁ…。チャンポンだけど、まっいいか。 「ありがとう」 ゴクゴクとほぼストレートに近いロックを空けた。 「飲みっぷりいいね〜」 それからどれくらい飲んだんだろう…。隣のおじさんにお礼を言い、店を出てトボトボ歩いて実家に帰っていると。 「美羽…?」 家の手前、つまり翼ん家の店の前で声を掛けられた。 「おい。お前、どれだけ飲んだの?」 翼は私を見てすぐ酔っ払いだと気づいたみたいで、私の肩を支えた。 「うるさいなー。私はどんだけ飲んでも記憶をなくしたこともないし、吐いたこともないの!」 その手を振り払い、自分の実家へ逃げた。 * 私たちは同じ高校に進学した。もちろん翼と同じ高校に行きたいがために、私は必死で勉強したのだ。 けれども高校生になっても二人の関係は変わらなかった。ただの幼馴染。そして翼はまた、私ではない他の誰かを好きになる。 高校二年生の時、意を決して、翼の一番の親友だった大地に「翼が私のことをどう思ってるのか、それとなく聞いてくれる?でも絶対に私が聞いたことは内緒にして」と頼んだことがある。 大地は「いいよ」と言って翼に聞いてくれた。 その結果は 「翼は美羽とはただの幼馴染だって言ってた。隣にいるのが当たり前すぎて、好きとか嫌いだとかそういう対象じゃない。恋愛感情なんてわかない…って」 “恋愛感情なんてわかない” 大地から聞いた言葉が、翼の声に脳内変換されて、私の心を突き刺した。何度も。何度も。 それからずっと思っていた。友達とか彼氏とか彼女とか、そんなの全く区別のしなかった、幼い頃に戻りたい――って。 三年生に上がると、翼はどんどん顔つきも男らしくなり、いつの間にか校内で有名になるほど、女の子にもてはやされ、それと同時に私たちの距離も離れていった。 寂しかった。 私だって体は“女”になっていってるのに、それに気づいてくれない翼に、一人“子供”のまま置いてけぼりにされたみたいだった。 翼は、八年経った今も、私を女として見れないですか? 翼と会っていない間にいろんなことを、翼の知らない人と、頭で、心で、体で、大人になってしまったよ――。 それでも、私を女として見れないですか? * 数日後。 私は地元よりずっと街の隣の県で再就職先を見つけた。小さな会社の事務職。 面接のその日に「是非うちで働いてほしい」と言われ、すぐその足で就職先近くの不動産屋に向かい“即入居OK”という所を探してもらった。 その間、翼とはどうにか会わずにいることができた。 もう地元(ココ)には戻らない。翼には二度と会わない。 翼のことも、それから婚約者だった彼のこともすべて忘れて、人生を一からやり直そう。 私は心に誓った。 家に戻り、急いで着替えをバッグに詰めた。 「お母さん。急だけど、明日ここを出て行くよ。悪いけど大きい荷物は送ってくれる?」 「ちょっと、美羽!? 何もそんなに急がなくても…」 私は逃げるようにこの町から出た。翼からも。 そう言えば東京を出る時も、こんな風に思ったんだっけ。私は一体何をしてるんだろう…。 * 電車を乗り継ぎ、吸い込まれるように新しい私の住処に入った。不動産屋さんから先に鍵もらっておいてよかった。 翌日のお昼前。 ――ピンポーン 「あれ? 荷物もう来たのかな」 「はーい」と玄関を開けると、そこには翼がいた…。 「なんで…?」 「おばさんに聞いた」 お母さん、また余計なこと言ったな。 「話がある…」 「どうぞ。まだ何もないけど」 「ホントだな」 話ってなんだろう。私は翼が考えていることが全くわからなかった。 キッチンの台に置いてあった、常温のペットボトルのお茶を翼に渡した。 「ごめん。こんなのしかない」 「サンキュ。しかし布団もないのに、昨日どうしたの?」 「床に転がって寝た」 「強えー」 翼は笑った。 いつもそうだったよね。私のこと、そうやって見るんだよね。女の子として見てくれないよね。 「で、どうしたの?」 「あー…。この間のこと謝ろうと思って…」 翼が謝るだなんて珍しい。 いつだって“俺は間違ってない”っていう性格だったのに。 「この間って?」 なんとなく解ったけど、そう返した。 「美羽が飲んで帰ってきた日のコト…」 「いいよ。別に。そんなことでわざわざ来たの? お店は?」 「定休日」 「そっか」 「美羽が酔っ払って帰ってきた日、俺はお前の肩を触ってびっくりしたよ。こんなに細かったかなって…。今朝、近所ランニングしてたら、ちょうど美羽のおばさんに会って、美羽のことを聞いてさ」 「うちのお母さんっていつも翼に余計なこと言うよね」 「ううん、違う。おばさんは“言うと美羽に怒られるから”って言ってたけど、俺がどうしても教えてほしいって頼み込んだんだよ。美羽が帰って来た理由を」 「そうなんだ」 「俺は美羽がそんな理由でこっちに帰って来たことも知らないで。だからあんなふうに…。美羽。俺ね、こっちに向かう運転中に、八年前美羽がいなくなった日のことを思い出したんだ」 翼は一句、一句かみ締めながら話した。 「美羽が東京へ行く日、俺に何も言わなかっただろ。自分の母親から“今日東京に行ったんだって”って聞いた時、なんで教えてくれなかったんだろうって思った。 卒業式の時もさ、大地に“美羽に卒業式の後、屋上に来てほしい”って伝えてって頼んだじゃん? でも大地に“美羽、行かないってさ”って言われて、すげーショックだった」 「ちょっと待って! 卒業式!? 私そんなの聞いてないよ」 「え?」 もしかして大地………。 「ねー。大地に私の事どう思ってるか聞かれたことある?」 「あるよ」 「なんて答えた?」 「美羽のことが好きだって――」 「うそ」 「うそじゃねーよ。俺はずっと美羽のことだけが好きだったんだ。だけどあの頃はそんなコト言えなかった。近すぎたんだよ、俺らの距離は。だから卒業式の日に言おうとしたんだよ」 私たちの声は大きくなり、からっぽの部屋を響かせた。 「大地はそんなこと言ってなかった。翼は私に恋愛感情なんてわかないって言ってたって…」 「俺はそんなこと一言も言ってない!」 「本当に…?」 「本当だよ。…もしかしたら大地も美羽のことが好きだったのかな」 「まさか…」 「美羽は大地に何か言われたことない?」 「ないよ」 と口にした瞬間、思い出した。 「そう言えば、高三の後夜祭の時、ダンスでみんなペア作ってるのに私だけ一人ぼっちで、大地が私の手を取ってくれて、そのダンスの途中“翼じゃなくて俺にしなよ”って言われたよ…」 「それって俺が熱出して早退した時じゃん。で、何て答えたの?」 「ごめんねって、走って校舎に隠れた」 「わー。大地かわいそう」 かわいそう? 翼の言葉を聞いた瞬間、涙があふれてポロポロこぼれ落ちた。 「そんなふうに…言わないでよ…。あの時は…そうするしかできなかったん…だから。自分が…一番…かわいそうだと…思ってたし…。大地はどうして翼じゃないんだろうって…ずっと…一人で泣いてたんだからね…」 涙で言葉が思うように出なくて、言いたいことがうまく言えない。 「美羽…」 翼は私の濡れている頬を指でぬぐった。 今になって、ようやく真実が明らかになった。すべては大地のせいだったんだ。一瞬、思ったけど。 本当は違う。 すべてはお互いが素直になっていれば…。 「今、大地はどうしてるの?」 「あいつ、フリーのカメラマンになったよ。空の写真ばっかり撮ってるらしい。今はどこの国にいるのかわからないけど、時々現地の絵ハガキが送られてくるよ」 「そうなんだ…」 大地も夢、叶えたんだね。 彼の家は写真屋さんで、小さい頃からカメラを触っていたって聞いたことがある。私がいつも寂しくしてるのを大地にはなぜか気づかれてしまって、時々、放課後になると高台・堤防・海岸…いろんな場所からの夕日を見に連れて行ってくれた。 大地は中でも一番好きなのは、歩道橋の上から見る雨上がりの夕焼け空だって言ってた。 私もそれが一番好きだった。大地は「一緒だね」って笑ってくれた。 彼が私に笑いかけてくれたことも、私の寂しさに気づいたのも、すべて私のことが好きで、いつも見ててくれたからなのかなって…今さら気づいた。彼もきっと私と同じように、想いが伝わらない寂しさを感じていたんだ。 大地…。私は大地と見たあの夕焼けは今でもはっきりと覚えているよ。 「翼は私のこと好きだったくせに、なんで、いつも女の子とイチャついてたのよ?」 「そりゃー、美羽に妬いてもらいたかったからだよ。俺もガキだったし」 「ばかじゃないの!? 私そんな事も知らずに、わざわざ翼から離れるために実家を出て東京に行って、しかも違う人と結婚しようとしてたんだよ!? って……結局駄目になっちゃったんだけどさ…」 「ごめん…。ごめんなー。つらかった?」 翼は私の頭をよしよしって撫でてくれた。 子供の頃も、私が泣いてるとよくこうやって撫でてくれたよね。 「うん…」 「そっかぁ。でももういいじゃん。こうやって俺の所に辿り着けたわけだし。俺のこと好きだった?」 「うん…。今も好きだよ」 翼がすごく嬉しそうな顔をしてくれて、キスをしてきた。 それは私がずっと求めていたものだった。 翼ってこんな愛おしくキスしてくれるんだ。今まで何人としたのかなぁ。 ふれてほしくても、ふれてもらえなかった。幼い頃はよく手をつないで幼稚園に行ったのに…。いつからか、翼は私にふれなくなった。 それが、やっと今…。 「それから今更だけど、俺の初恋は美羽なんだからな」 「え…っ、ゆみちゃんじゃないの!?」 「誰? ゆみちゃんって。覚えてないんだけど」 「ほら幼稚園で同じだった…」 「へ? 記憶にない」 私はどうやら子供の頃から勘違いをしていたみたいだ。いったい翼の何を見てきたんだろう。 「ねぇ、翼」 「ん?」 「私はこの手をつかんでてもいいんだよね? 翼は私のこと裏切ったりしないよね? 私もう傷つくのは嫌だよ」 「心配しないで。信じていいよ」 翼は握っていた私の手を、強く握り返した。 「寿司喰う?巻き寿司だけど」 「うん」 保冷バッグに入っていたお寿司を出した。 「いただきます」 大好きな人が私のためだけに作ってくれたお寿司を口に入れた。 「美味しい?」 「うん…」 また涙がこみ上げてきて、喉の奥が詰まってて、本当は味がよくわからなかった。けれど、愛情が込めてあるのがよくわかったよ。 「修行、大変だったでしょ?」 「まーね」 「すごいね。頑張ったね」 「ありがと」 言えなかった言葉を、ようやく素直に言うことができた。 「美羽さー、うちの寿司屋の若女将になってよ」 「嫌だよ」 即答した私に、翼は唖然としていた。 「私の小さい頃からの夢は寿司屋の若女将じゃないよ。翼のお嫁さんだったんだからね」 「ハイ…」 翼は私の目の前に正座をした。 「俺のお嫁さんになって下さい。お願いします」 「うんっ」 私は翼に飛びついた。 私は翼が好きだった。 翼も私が好きだった。 昔も、今も。 …これから先もずっとその気持ちは変わることはない。 happy end... 2006-04-25 |