4 幸せになりたい


本当は漣くんの所に行きたくなかった。
メールなんて開かなきゃよかったな。
電話も出なきゃよかった。
あのまま、もう少しでいいから主任と二人でいたかったのに。
今更「行きたくない」って言うのはわがままなのかな。
でも、こんなこと言ったら主任を困らせてしまう…。

そんな私の気持ちなんて知らない主任は漣くんの家まで送って行ってくれた。

アパートの前に車を停まり
「ごちそうさまでした」
車を出ようとすると、主任は私の手を止めた。

「待って」
「え?」
「このままあいつに抱かれに行くのを許すと思う?」
「主任…?」
「今すぐ彼と別れてきなよ」
「あ・あのー…」

私が一人で混乱してると、主任は深くため息をついた。

「鈍い部下を持つと大変だ。前にも言ったでしょ? 好きな子の不幸を黙って見てられないって」
「え? あの時ですよね? 主任、“部下の不幸”って言いませんでした?」
「そうだっけ?」
「はい」

会話はそこで一旦途切れ、カーオーディオから流れていた音楽も終わり、車内が一瞬静まった。

「さ、どうする?」

その答えはすぐに出た。

「わかりました。けれど…」
「一緒に行こうか?」
「…お願いします」

車を降りて、漣くんの部屋に向かった。
主任は私の手を「大丈夫だよ」ってギュッと握った。

手が震えてできない私の代わりに、主任がインターフォンを押した。

「遅いんだよ」
玄関ドアが開き、だるそうに漣くんが出た。
出るなりグイッと腕をつかまれて、玄関の中に引き込まれそうになったけど後ろから主任に戻された。

「なんだ?」
主任に向かって漣くんが言った。

「私、も…もう二度と漣くんとは会えません。ごめんなさい」
「どーゆーこと?」
ジーッと睨まれた。

すると
「もう百香に会わないでくれるかな?」
主任が漣くんに言ってくれた。

「あー…ウザ…。そーゆーこと…」
彼は私達のつないでいる手を見てボソッとつぶやいた。

「女の子を泣かせるようなことはしちゃだめだよ」
主任は怖いほどの優さで漣くんにそう言い、私に「帰ろう」と手を引っ張り、彼の部屋を後にした。

再び車に乗り
「大丈夫だった?」と私を心配してくれた。
「全然、平気です」
「嘘だ。まだドキドキしてるでしょ?」

私は抱きしめられ背中をさすってくれた。
どうしてだろう。
こうされると、どんどん気が楽になった。

ずっとずっと苦しかったんだ。
たぶん主任がいなかったら、あのまま部屋に引き込まれて、いつものパターンから抜け出せなかったと思う。

「よかったね。これでレンくんから解放できたわけだし、俺と付き合ってくれる?」
ストレートに言われた私は少し恥ずかしくて、冗談を言う。
「……それは“上司の命令”ですか?」
本当は自分の気持ちも伝えたかったけど、屋上で主任が言った言葉を真似て、はぐらかしてしまった。

「そんなわけないでしょ。俺が幸せにしてあげるよ。ずっと…」
主任は優しくキスをしてくれた。

唇が離れると、もう一度ギューとされ、頭をポンポンとして
「本当に俺の気持ち気づかなかった?」
と主任は笑った。

「はい…」
「医務室運んだのだって、コンビニで会って飯連れてったのだって、全部好きだからしたことなのに。
 それに俺が“別れろ”って何回言っても気づかないなんて…」

「わかりにくいですよ。それに彼女いると当たり前のように思ってたし…」
「いないよ。上海行く前に振られたから」

主任が振られた? なんか意外だった。

「日本に帰ってきたこと言わなかったんですか?」
「言うわけないじゃん。その前にキミと出会っちゃったわけだし…」
「え? 主任はいつから私のことを?…と言うより何で私なんですか?」
「西村の結婚式の日覚えてる?」
「はい」

それは私が入社した年の秋だった。

西村さんとは、私の隣の席の先輩、明日美さんの同期で彼女を通じてよく話すようになった。
それで西村さんは結婚式の二次会に後輩の私も呼んでくれた。

「主任はその日、結婚式に出席するために上海から一時帰国したんですよね」
「うん、そうだよ。だったら、二次会で俺に会ったことも覚えてる?」
「もちろんですよ」
「へー、覚えてたんだ」
主任はクスクス笑って話を続けた。

「じゃあ、俺の初めて見た時の印象教えてよ」
「えーっと…背の高い人だなーって思いました」
「え?普通ー。そのままじゃん。他にないの?」
「優しそうだなーって思った…かな?」
「なんで疑問系なんだよ」
「ハハ。でも西村さんに、本社に戻ったら私の上司になる人だよって言われた時、
 楽しみだなって思ったのを今でも覚えてますよ」
「そうなんだ」

「主任は私のこと覚えてます?」
「はっきり覚えてるよ。会社のやつらといたから、
 誰なのか聞いたら俺がいた課の新入社員だって聞いて、早く本社に戻りたいと思った。
 それまではただ日本に帰りたかっただけだったのに。
 初めて会った時から運命的なものを感じたんだ」

「主任…」

「はい。もう“主任”って呼ぶのは終わり。会社の外で二人でいる時は名前で呼んで」

名前……。
そう名前。
私はずっと主任に聞かないといけないことがあった。
ここまできて、すごく失礼な質問なんだけど…。

「あ・あの…ずっと聞きたかったんですけど、何て読むんですか?」
「はー!?」
主任は「今更何言ってんの」って言いそうな顔をした。

「だって、いつも胸についてる社員証を見てチェックしてたんですけど
 名前の下に書いてあるローマ字、ちっちゃくないですか?…だから…」
「大きいに雅(みやび)って書いてタイガって読むの」
「あー、タイガ!」
「そう大雅」
「わかりました。大雅」
「呼び捨てかよ」
「あ…大雅さん?」
「ううん、大雅でいいよ。サンとかクンとかいらない。それとその敬語もやめてね」
「はい…?…うん」

主任…大雅はにっこり、私に笑いかけてくれた。
この人はどうしてこんなに優しく笑うんだろう。
今までの彼がああだったから、そう感じるのかな。


「今から、どうしようか?」
「…どうしようか…」

素直に“もっと一緒にいたい”とも言えず、何て答えたらいいかもわからなくて、そう答えた。

「ゴールデンウイークの予定は何か入ってる?」
「ううん…」
「だったら一緒に過ごそう」
「はい」

「俺ん家、泊まる?…なんかこのまま別々の場所に帰るのは後悔しそうな気がするんだけど」
「はい。あ、でもお泊りセットとか着替え取りに行きたいな」
「連泊するつもり?」
「え…」

恥ずかしかった。
別にそういうわけで言ったんじゃなかったんだけど…。

「いいよ。今から取りに行こう。連泊してほしいし」
笑われてしまった。

この人は私のこと、からかい面白がってるだけなのかなぁ…。

私のアパートに着き、急いで部屋に戻ってバッグに化粧品や服を入れた。

「はぁー…。お待たせしました」
「すごい量だねー」
「これでも、何か忘れ物をした気がするんだけど」
「いいよ。近いんだから」

本当に近かった。
5分ちょっとで彼のマンションに到着した。

「おじゃまします」

招かれ入ると、コンクリート調のクロス張りでモダンでお洒落な部屋。
リビングにベッドルームがオープンでつながっていて、私の部屋よりずっと広かった。
でもリビングにはテレビボードとその上の液晶テレビだけの殺風景な部屋だった。

漣くんの部屋は本や雑誌があちこちに積んであって、壁には色んなポスターが貼ってありゴチャゴチャしていた。

「何もないでしょ。ソファとかテーブルもあればいいんだけど。帰って寝るだけだしね」
大雅…は運んでくれた私の荷物を部屋の端に置いた。

「ご飯はどこで食べてるの?」
「キッチンカウンターだよ」
カウンターの傍にあったスツールを指した。

「ああ、でも一脚しかないし、これから百香が来るなら色々揃えないといけないね」
そう言って私を抱き寄せた。

上海に行く前に元カノに振られたって言ってたよね。
部屋を見て気が付いた。
この人はずっと一人で頑張ってきたんだなって。

「さっき言えなかったんだけどね、私も…大雅が好き。いつの間にか惹かれてたの」
「ありがとう」
私たちは二度目のキスを交わした。
一度目より長いキスを。

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2006-04-13


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