1 秘密の場所


たぶん私が今いる世界は、深い深い闇で
ココから出るには一人では這い上がることができなくて
いつからか温かい手を差し伸べてくれる人を待っていた。



 *



私、吉野百香(よしの ももか)は入社2年目のOL。
勤務先は電器メーカーの会社。
世間では大手と言われている。
こんな会社に入れたのは、今まで勉強ばかりしていて
一応有名大学を卒業できたからという理由と、伯父が昨年まで人事部にいたから。


そして付き合って1年になる彼氏、漣(レン)がいる。

私は学生の頃、男の子と付き合ったことがなかった。
だから漣くんが全部はじめてだった。

彼と休みの日にどこかへ出かけたり、外で食事をしたりすることもない。
彼が言うには、出かけるのが嫌いで、家にいるほうが落ち着くからという理由で。
私達が会うのは約束してから会うんじゃなく、
ただ突然、漣くんからのメールで呼ばれて、会うとすぐ体を求められて、それが終わると一人で家に帰る。
送ってもらったことは一度もない。

私は漣くんしか知らなかったから、付き合い始めはそういうカップルをおかしいとも思わなかった。


彼とは友達の友達が主催した合コンで知り合った。
2歳年下でまだ大学生だけど、意気投合した私達は流れで初めて会ったその日のうちにホテルに行った。
そんなに簡単に許したのは22年間処女だったのを、早く捨てたかったからかもしれない。
初めての行為が終わったあと、彼はかなり驚いていたけれど…。

そもそも、その始まりがダメだったんだ。
そういう関係は、次第に自分が望んでいた恋愛とは程遠かったと気づいた。
付き合って5ヶ月の時、私は彼に「別れたい」と言った。
けれど漣くんは「もっと大事にするから」と言ってくれ、別れることを拒んだ。
その言葉をすっかり真に受けてしまって、いつのまにか1年という月日が流れていた。

 *

付き合って1年の記念日。
前からその日は一緒にお祝いしようねって約束していた。
ご馳走を作るためにレシピ本と食材を買って、本を見ながら一生懸命作った。
けれど漣くんは来なかった。
電話をしてもつながらなかった。

翌日の昼休憩。
私は給湯室で彼に電話をかけた。
『もしもし』
不機嫌そうに出た彼。
「今大丈夫?」
『何?』
私が昨日のことを聞くと
『忘れてた』
一言それだけだった。
「1日遅れだけど今夜、お祝いしよう」
『忙しいし、また今度でいいよ』
「ちょっと待って…」
そんな私の声は無視され、電話は切られた。


「こんな所で何してんの? 彼氏と電話?」
そう声をかけてきたのは、上司である結城主任だった。
彼はこの4月に赴任先の上海から本社に戻ってきた。
私が入社した時にはすでに向こうにいたから、詳しくは知らなかったんだけど、いわゆるエリートらしい。

「もしかして、今の電話、聞いてました?」
「別に聞きたくて聞いてたわけじゃないけど。吉野、昼飯は?」
「今から行こうと思ってます」
「今からじゃもう食堂混んでるし、秘密の場所に連れてってあげる」

そして連れて行かれた所はコンビニだった。

「あのー、秘密の場所ってコンビニじゃないですよね?」
「違うよ。さぁ、早く食べたいの選んで」
私はパンと紅茶をカゴに入れた。

コンビニを出て、再び会社に戻ってエレベーターに乗り、主任は最上階のボタンを押した。

「最上階ってことは、屋上!?」
「正解。うちの会社ってさ、昔からみんな屋上に行かないんだよねー。たぶん今もだと思うけど」
「そうですね。私も行ったことないです」
「何でか知ってる?」
「いいえ」
「それはね、幽霊が――…」
「嫌ー! それ以上は結構です」

私が耳を塞ぎ断ると、主任は笑った。

「ウソだよ」
「ウソ?」
「ただ風が強いからじゃないかな? 周りのビルが低いから、風を直接受けるんだよ」

主任が屋上の扉を開けると、本当に風が勢いよく吹き込んできた。
主任は扉を押さえててくれて、私は屋上に上がった。

風をさえぎる場所に私達は並んで昼食を取った。
少し肌寒かったけど、春の日差しが気持ちよかった。

なぜか話題はさっきの彼との電話になり、いつのまにか彼の話を主任にしていた。


「それはさ、相手は吉野のことセフレとしか思ってないんじゃないの?」
「セフレ…」
言葉もその意味ももちろん知っていた。
けれどまさかそれが自分に当てはまるなんて思ってもいなかった。
ううん。そう思わないようにしてたのかもしれない。
私と彼は恋人同士だって自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。

「別れたら?」
「え?」
「そういう男とは別れたほうがいいよ」
「どうして、そんなこと…」
「“どうして主任は私にそんなこと言うんですか?”って言いたいの?」
「……はい」
「なんでだろうね。俺にもわからない。部下の不幸を黙って見てられないから?」
主任はクスクス笑った。

不幸を見てられないって、笑ってんじゃん。

そもそも私はどうしてこんなプライベートな話を会社の上司に話してしまったんだろう。
あー…今のこと主任の記憶から消してしまえたらいいのに。


「50分か。そろそろ戻ろう」
「はい」

エレベーターが来るのを待っている時、
「こっち向いて」
「?」
主任が私の髪を手ぐしで直した。
「ボサボサになっちゃったね」

初めて主任とこんな近くで向き合ったから、すごく恥ずかしかった。

主任はいつもスーツを綺麗に着こなしていた。
顔はスッキリ顔で、笑うと目がなくなる。

エレベーターに乗り込むと
「ツライことや嫌なことがあったら、また屋上に行くといいよ。その時は髪結ってからね」
主任はそう言った。

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2006-03-20・05-12


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