35、修学旅行・5


 三日目札幌。
 若葉の腹はさすがに空腹の音をならしたけれど、朝食もうまく喉に通らなくて四分の一ほどしか食べられなかった。
 彼女にとってこの修学旅行で一番楽しみにしていたのが札幌。 リョウが生まれ育った場所だ。そしてリョウの実家の蟹料理店に行くことになっていた。 リョウとはこんな風になってしまったけど、それでもやはり好きな人の故郷や通っていた学校は見たかった。
 リョウの故郷は札幌の郊外にある。
まずはリョウが子どもの頃によく遊んだという公園に行った。 その頃にはまだなかった立派な展望台が設置され、クラス全員で景色を眺める。
 リョウが各方面の説明をし、あと一か月もしないうちに木々は紅葉し、あっという間に秋が終わり初雪が降ると生徒たちに話した。

 そして昼食のため、リョウの実家に行く。
 リョウの家族が営む店は、若葉や他の生徒たちが想像していたものよりもはるかに老舗で、 店のホームページには歴史が書かれてあったけれど、趣のある門構えの建物は、 生徒たちが気軽に「行きたい」と言ってしまったことを反省するほど、高級感が漂った料亭だった。

 店へ入ると、リョウの家族――両親と兄夫婦――が出迎えた。
 生徒たちは大広間に通され、宴会のようにお膳と座布団が綺麗に並べてある。 こんなに良くしてもらえると思っていなかった生徒たちは大騒ぎだ。
 若葉は用意されたご馳走を食べたかったけれど、眩暈を覚えた。
「ちょっ……顔が真っ青だよ。大丈夫?」
 愛果がそう声を掛けた瞬間、若葉は倒れてしまった。
 生徒の悲鳴で、あとから入って来たリョウはようやく若葉の様子に気付く。
「どけ」
 彼女を囲んでいる生徒を割り、自分の胸に抱き、店から自宅へつながる通路を掛け抜けて、 気付いた母親に布団を敷いてもらうように頼んだ。
「若葉? 大丈夫か?」
 呼び掛けに、小さくもなんとか応えようとしていることが判り、少し安心した。

「リョウ? 調理場は手があいたから俺が代わりに看ておくよ」
「ごめん、頼む」
 ずっと若葉についているわけにもいかず、ここは兄に任せることにした。 せっかく生徒たちが楽しみにしていたのを壊すわけにはいかない。
「先生。若葉、大丈夫だった?」
「ああ、大丈夫。こんな料理、俺でも食べたことないんだから味わえよ」
 平然を装い、教師の皮を再び被った。


 若葉は布団に寝かされていることに気付く。そう言えば倒れてしまったんだ……。 ゆっくりと目を開けるとリョウらしき姿を見つけた。
「先生……?」
 掠れた声で小さく呼ぶ。
「あ、目覚めた?」
 若葉のそばに寄ったのはリョウではなく兄だった。
「ごめんなさい……。ここは……?」
「リョウがここまで運んだんだよ。あ、ここ店の奥の家ね。この部屋はリョウが昔使っていた部屋なんだ」
「そうですか」
「若葉さん……って苗字?」
「下の名前ですけど、どうして?」
「リョウがずっと君のことを呼んでたから」
 リョウと兄は目元がそっくりで、若葉は戸惑いながらも謝る。
「そう、ですか。ご迷惑をかけてしまって、本当にごめんなさい。あの、先生は?」
「もう食べ終えて、みんなを連れて学校まで行ったよ」

 学校……。それはリョウが通っていた高校だ。リョウの母校の生徒たちと交流するはずだった。 若葉が実家の次に行きたかった場所、自分と同じ年のリョウを知ることのできる場所だった。でも若葉はそこへは行けなかった。

「夕方前にリョウが迎えに来るから、それまでうちで休んで」
「はい」
「そう言えば、ずっと何も食べてないんでしょ? 何か食べやすいものだったら大丈夫そう?」
「はい。あっ、でも申し訳ないです……」
 自分だけ特別に作ってもらうだなんて迷惑をかけるにもほどがあると若葉は遠慮しようと思った。
「美味しい物を美味しく食べてもらうことが一番の役目だから遠慮しないでよ。雑炊作ってあげる」
 そう言ってリョウの兄は調理場へ向かった。

 若葉はまだ体を起こすことができなくて、寝たまま、ぐるりと昔リョウが使っていたと言う部屋を見渡す。 けれど残念ながらリョウが使っていたと思われる物は何もなかった。それが余計に若葉の寂しさを深めた。 きっとリョウの心の中もこうして何もなかったかのように自分の形跡を消すのだろう。
 涙があふれそうになった時、扉がノックされ、ゆっくりと体を起こす。入って来たのはリョウの母親だった。
「無理しなくていいから、食べられる分だけ食べてね」
 小さな土鍋の蓋を開けて、優しく声をかけ、心配そうに顔を覗く。
 若葉は恥ずかしそうに微笑み「ありがとうございます。いただきます」と手を合わせて、 器に入れてもらった雑炊をスプーンで少しすくい口にした。
「美味しい!」
「大丈夫? 気持ち悪くない? 食べられそう?」
 リョウの母は若葉の体を気遣いながら問う。
「はい。大丈夫です」
 そんな優しさにほっとしながら、蟹雑炊を完食した。
 若葉が食べている間に、リョウの母は「ゆっくり食べてね」と出て行ったので、再び一人になった。
お茶を飲みながら、今頃みんなは、先生は何をしているのかなと考える。


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2006-02-10
2012-07-05 大幅修正
2013-09-20 改稿







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